ベツサイダの麻痺した男
- East Asia Delegation
- 2025年9月30日
- 読了時間: 4分

彼はもう年月を数えるのをやめていた。最初のうちは数えていた――一年、二年、五年、十年。しかしやがて、その数字は手足の痛みや、床几の周りに積もる埃の中にぼやけていった。三十八年。それが彼が見知らぬ人に言った数字だった。三十八年もの間、待ち、見つめ、望み続けてきた。そして、無視され続けてきた。
彼はよく自分自身に語りかけていた。声に出してではなく、苦さと切望が住処を作った心の静かな隅で。「彼らは磨き上げたサンダルを履き、きれいなローブを着て、鷹のように水を目で追いながらやって来る。そして水が動き始めると、彼らは飛び込む。押しのける。忘れてしまう」。彼はそれを何度も見てきた。水が波立ち、突然群衆が前に押し寄せる。誰もが必死で一番になりたいと願う。誰も振り返って、「兄弟、手を貸そう」と言ったことは一度もない。彼を起こそうと手を差し伸べた者もいなかった。人々は奇跡を信じている。そうだ。しかし、それは自分のための奇跡だ。
彼はある男を覚えていた――若く、強く、ほとんど目立たない足の引きずりがある男。その男はたった一週間前に来たばかりなのに、もう池の端に近い場所を確保していた。ある朝、水が動き、若者は前方に飛び込み、年配の女性を押しのけ、子供を踏みつけそうになった。彼は成功した。癒されたのだ。そして去り際に、彼は振り返った――罪悪感ではなく、勝利の表情で。床几の上の男はその目を捉えて言った。「あなたは私を見た。私が動けないのを知っていた。なぜ助けなかったのか?」若者は肩をすくめた。「私も癒しが必要だったんだ」。それで終わりだった。
それは肉体的な痛みだけではなかった。見えない存在として扱われることだった。人々が彼をまたぎ、迂回し、決して彼の方へは向かわない。彼らは神の介入を求めてベテスダに来るが、人間性は門の外に置き去りにする。彼は思うようになった。この池は単なる癒しの場所ではない――鏡なのだ。それは人々に自分たちが本当はどのような存在かを示す。そして彼らのほとんどは、必死で、自己中心的で、隣で苦しむ者に盲目なのだ。
もちろん彼は祈ってきた。癒しのためだけでなく、誰か――誰でもいいから――気づいてくれるように。「主よ、私に助け手を送ってください。ただ一人でいいから」。しかし沈黙は年月よりも長く続いた。そしてゆっくりと、彼の祈りは変わっていった。癒しを求めるのをやめた。理解を求め始めた。「なぜ彼らは私を見ないのですか?なぜ彼らは、あなたの憐れみに到達するために弱い者を踏みにじりながら、自分たちの信心深さがあなたに喜ばれると思っているのですか?」
ある日、太陽が昇り、柱廊の影が石の上に長く伸びていたとき、一人の男が近づいてきた。彼は急がなかった。水を探し求めなかった。彼はまっすぐに彼を見つめた。「癒されたいか?」その問いは彼を驚かせた。奇妙だからではなく、誠実だからだった。誰もそんな風に尋ねたことはなかった。人々はそう決めつけていた。彼も奇跡を待つただの一人の身体だと決めつけていた。しかしこの男は彼を見た――単にその状態だけでなく、その魂を見たのだ。
彼は躊躇した。「先生、水が動いたとき、私を池に入れてくれる人がいないのです。私が入ろうとしている間に、誰かが先に降りてしまうのです」。それは単なる不平ではなかった。告白だった。叫びだった。三十八年の見捨てられの総括だった。
その男は彼を水辺に運ぶと申し出なかった。一緒に待つとは約束しなかった。ただ言った。「起き上がれ。床几を担いで歩きなさい」。そして何かが変わった――彼の脚だけでなく、心の中で。彼は見られていると感じた。力づけられていると。愛されていると。
彼が立ち上がり、床几を脇に抱えたとき、周囲を見回した。池はまだそこにあった。群衆はまだ押し合っていた。しかし彼はもうその競争の一部ではなかった。彼は水によってではなく、言葉によって癒されたのだ。競争によってではなく、思いやりによって。
その後、彼はその男――イエス、それが名前だと人々は言った――に従うようになった。すべてを理解したわけではない。それがどこへ向かうのかも知らなかった。しかしこれだけはわかっていた。彼を癒した神は、祝福への我先の争いに感動するのではない。憐れみによって動かれるのだ。そして数十年もの間、見えない存在として横たわっていた男は、今や目的を持って歩いていた。ただ癒されただけでなく、目覚めさせられたのだ。
彼は二度と、苦しむ魂を通り過ぎることはなかった。なぜなら、見過ごされるとはどういうことかを知っていたからだ。そして、見出されるとはどういうことかを知っていたからだ。
Fr. ジジョ・カンダムカルイル CMF
『オ・クラリン』マカオ・カトリック新聞掲載




コメント